体制システムの修正(FIX)された更新(Updates)

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というわけで、国の国家権力を担う部分には必ずといって良いほどに過多ともいえる大負担が押し寄せて来るが、相応の能力資質が必要とされるのは当然として、一部が形骸化してしまう事は避けられない。そして、その腐敗した形骸は、国家権力体制の不備として、長い文脈を踏まえた上での、認識の段階的な更新(アップデート)から見出された段階的な不備体制の修正(FIX)が求められる。そして、権力体制の不備は、旧依然とした体制システムが認識出来無かった、もしくは乗り越えられなかった旧依然の権力側の「断固で強固な甘え」である。それらは切開(デブリドメント)される体制システムでもあろうし、強化される体制システムでもあるが、それら切開、強化の対象が国の構成員(国民)を疲弊させては国の意義や意味すら失われ、「切除、除去、切断」として国の構成員(国民)をズタズタに、ザクザクと斬り刻んでいる事も想定される。時に行われる「精神への切開」は、不確かで曖昧で、次の瞬間に変化してしまう霞みの中での切開(デブリドメント)に、自らの痛みが伴われなければ、切開であるとは言わず、そもそも必要の無い切開の刃物を子供達が振り回している様な状況の、惨劇の連鎖連続を再認識として理解しておいても良い。おそらく被切開対象とされる傾向は、日本人にも多いのであるが、そもそも切開、除去、切断が行われる前提理由を施術者側が真に理解しているとは言いがたい。切開除去対象は体制システムであり、環境システムであり、「生ある他者」であってはいけないということ、国の構成員(国民)、もしくは隣人同士が「比喩として」、(切開除去の刃物を振り回しながら、首吊り台へと昇り詰めようとしている様相)を、俯瞰視点として、どれほどの人間がイメージ出来るのだろうか。


特に国家権力の断固で強固な体制システムにおいての、腐敗、腐蝕しがちな負担部分には「休暇と遊びを享受するお仕事」が欠けている様にも観えるし、必要不可欠であるという認識さえ、多くの人々にとっても欠けており、それも、言うなれば「断固で強固な甘え」なのである。

研究と実験の限界

西暦2017年、研究と実験は街の至る所に散りばめられている事が、比較的多くの人々に認識されるようになった。

実験の成果は、主に収益を上げる為に利用される。

ラーメン屋の落ち着かない高さの赤い椅子は回転率を高める。

コンビニ、入り口からレジまで、どのルートを通るのか。商品の配置は。

ポイントカード、年代と性別による消費行動。

交通IC、年代と性別による公共交通機関のルート、利用時間、利用率。

広告、場所、人物、デザイン、キャッチコピー。

URL、クリック数、タッチ数、間隔、時間。

ヒト、モノ、カネの動き。

あらゆる情報がビッグデータとして保管され、利用される現代で、無知な観察者は現実を知らない。

観察者が存在するだけで、既に行動が変化する事を。

観察者を被観察者が認識した時点で、さらに行動が変化する事を。

そして、倫理すら頭に無いものは、被観察者を遠ざけていく。

情報の自動転送、時に起こる人為介入。

しかし、鏡である対象は、自らの姿を否が応でも映し出す。

その前提認識を、共有している人間が、もしかすると、限られているのかも知れない。

多くの場面で送られてきたメッセージを記憶、理解している人間はどれだけいるだろうか。

「怪物と戦うものは、その過程で、自らが怪物と化さぬよう心せよ、長く深淵を覗くものを、深淵もまた、等しく見返す」

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

人間にとって、見たくないもの、聞きたくないもの、知りたくないこと、は多くあり、公開されている情報だけでも、充分に認識可能であることも多い。

知ること、聞くこと、見ること、は、観察者への負担になる。

被観察者への負担になる。

監視社会、観察社会は昔から記述されているように、存在し、存続し、現代では顕著に顕現している。

限界を感じる観察者、そしてもちろん被観察者の悲鳴と苦悩が暴走しないように、心掛けなければならない。

狂騒曲、狂想曲、協奏曲

真夜中、午前3時前、暗闇に潜りたかった。

落ち着ける場所。誰にも見つからない場所で、静謐な時間と一緒に、ただ世界を眺め、この先の未来を夢見る場所。まどろむ場所。


電車の疾る音が聴こえる。貨物列車。

誰かに届く郵便として、凝縮されたモノの内包物は、デジタル情報だけでは決して持ち得ない、やわらかな感触を伝えるだろう。

物理法則を斬り裂くように、鳴り響く音は、静かな、静かな、「変えられないもの」との闘いの音色。それは、想起される狂騒曲。


澄んだ空気と、清らかで豊かな色彩が溢れていて、隠れていれた気がしていたあの頃は、太陽が眩しかった青空の向こうに行ってしまって、今は天候すら虚しさが滲む。誰か、を時おり思い出させてくれるくらいで。



雷雨の音に脅えていたね。

氷の上は滑ってしまうよ。

流れ星をたくさん見つけたね。


海辺で独り、小石でも投げようか。



未だに世界は、とても、とても気ままに、巧妙なやり方で、楽しませようとしてくれるけれど、その一つ一つの出来事に、返報することさえ出来ないくらい、遠く、遠くの彼方に行ってしまえよ、と、少なからず願ってしまうからこそ、心地良い孤独を求めてしまうこと。

それ程には、彼、彼女らの、狂想が奏でる、協奏のメロディに、ヤラれてしまっているのだろう。





汚濁にまみれた毒は、清く綺麗で、美しい色彩を現出させることもある。

旋律の音色や響きも、もちろん、そう。



あと何書こうとしてたっけ、忘れた。

ほしいスニーカー?

精神科ムラビトDISS

エセ医療の権威に頭が侵された精神科医は、話を聞かなければいけない時に話を聞かない。5分程度でわかった気になる無能ばかりで、おまけに自らは物分かりのわるい人間です、と自称しながら強制力を行使して、拉致監禁強制服薬虐待差別を繰り返す人間たち。彼、彼女に患者として憐れみを受ければ、悲愴感も漂ってくる。どちらが妄想に生きている人間か、未熟な経験ではわからないだろう。

日本国憲法すら、精神科医が御存知なかった現状が、精神科ムラビトの程度の低さを物語ってはいるのだが、彼、彼女らは自らの曖昧さを誤魔化す為にムラに入り、患者の話は理解出来ず、聞こうとせず、説明しようとする時間も与えず、「わけのわからんことを言っている」と言いながら、自らの意見を強制していた。そしてさらに、カルテ(公文書)に思い思いの偏向した記述を繰り返していた。未熟さを自覚した時、いつしか妬み嫉み恨みに取り憑かれ、悦に浸るため差別を行なっている現状に、そろそろ気付いてもらいたい。彼らの中には保険の点数から算出され、分配される収入と、自らの曖昧さを紛らわす為に、狂気と名付けられた人間を利用して、なんとか自らを確認し、夢を見続けるように、都合の良い妄想に取り憑かれている者も多いのだ。

コンビニBGM

コンビニの有線に歌詞があると頭痛を引き起こすという感覚は、リリック内容に不快感を覚えてしまう、と側面的に解する事が出来る。例えば歌詞において、いいですなー、と思う欅坂46サイレントマジョリティですら、秋元康作詞で、作曲、ファッションデザインが採用される過程においても、「大人たち」に支配されている構造がある。それらを理解した上で舞台に立つ、というスタンスには尊敬の念を抱かざるを得ないが、その構造を理解していない人たちを想定すると、リリックとの乖離に対して、どのように対処、順応していくのだろう、と、少々不安にもなるからなのだ。

それらの仕掛け、トリックは、大人たちから反抗の精神の力強さを見せてくれ、という期待なのであるが、認めざるを得ない、と世代を通して協奏曲を奏でる彼、彼女らに、ある意味で立ち向かおうとする姿勢を、内発的に持ちうるには、相当な難儀さを要するだろう。その上で「NO」と、彼らには言えず、やはりメッセージ性が色濃く表現されているのだと納得させられてしまう。と、ここまで記述して、冒頭に戻るが、コンビニでこのように想起されるからこそ、頭痛を引き起こしかねない感覚とは、このようなものである。

セブンイレブンはメロディだけの事が多いので、上手(ウワテ)な店内構成を感じさせる。

はてな

はてなブログGmailで新規登録すると、アイコンがデフォルトで僕が昔描いた、「誘う裏庭」になっていた。

現在のGmailのアイコンは「怒れる愛の幽霊さん」であるのだが、はてなブログで以前「誘う裏庭」を使用した事があっただろうか。cy3cypher@gmail.comでの何かしらの連携プログラムが働いているのだろう、と暫定的に結論付ける。人為介入によるトラブルが起こりえるからこそ、Googleは人間を排除した、プログラムのみで動く検索システムや判定システムを採用した。広告にせよ、一般的にはそのように機能する。セキュリティの問題においては、人為的ミスによるトラブルが頻発していた時代に、それらを避けられない事象として包括するプログラムが疾る現在。何かしらの法によるシステムはウィルスとして拡散するように疾る。流れていく。元々世界に存在していた法として。そこで僕が過去に見出した法、とは世界人権宣言を基礎とした、内発性のある希望なのであった。

君にとって今の世界は、ディストピアユートピア、どちらに見えるだろうか。

そして、君の信ずる法、とは。