体制システムの修正(FIX)された更新(Updates)

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というわけで、国の国家権力を担う部分には必ずといって良いほどに過多ともいえる大負担が押し寄せて来るが、相応の能力資質が必要とされるのは当然として、一部が形骸化してしまう事は避けられない。そして、その腐敗した形骸は、国家権力体制の不備として、長い文脈を踏まえた上での、認識の段階的な更新(アップデート)から見出された段階的な不備体制の修正(FIX)が求められる。そして、権力体制の不備は、旧依然とした体制システムが認識出来無かった、もしくは乗り越えられなかった旧依然の権力側の「断固で強固な甘え」である。それらは切開(デブリドメント)される体制システムでもあろうし、強化される体制システムでもあるが、それら切開、強化の対象が国の構成員(国民)を疲弊させては国の意義や意味すら失われ、「切除、除去、切断」として国の構成員(国民)をズタズタに、ザクザクと斬り刻んでいる事も想定される。時に行われる「精神への切開」は、不確かで曖昧で、次の瞬間に変化してしまう霞みの中での切開(デブリドメント)に、自らの痛みが伴われなければ、切開であるとは言わず、そもそも必要の無い切開の刃物を子供達が振り回している様な状況の、惨劇の連鎖連続を再認識として理解しておいても良い。おそらく被切開対象とされる傾向は、日本人にも多いのであるが、そもそも切開、除去、切断が行われる前提理由を施術者側が真に理解しているとは言いがたい。切開除去対象は体制システムであり、環境システムであり、「生ある他者」であってはいけないということ、国の構成員(国民)、もしくは隣人同士が「比喩として」、(切開除去の刃物を振り回しながら、首吊り台へと昇り詰めようとしている様相)を、俯瞰視点として、どれほどの人間がイメージ出来るのだろうか。


特に国家権力の断固で強固な体制システムにおいての、腐敗、腐蝕しがちな負担部分には「休暇と遊びを享受するお仕事」が欠けている様にも観えるし、必要不可欠であるという認識さえ、多くの人々にとっても欠けており、それも、言うなれば「断固で強固な甘え」なのである。