研究と実験の限界

西暦2017年、研究と実験は街の至る所に散りばめられている事が、比較的多くの人々に認識されるようになった。

実験の成果は、主に収益を上げる為に利用される。

ラーメン屋の落ち着かない高さの赤い椅子は回転率を高める。

コンビニ、入り口からレジまで、どのルートを通るのか。商品の配置は。

ポイントカード、年代と性別による消費行動。

交通IC、年代と性別による公共交通機関のルート、利用時間、利用率。

広告、場所、人物、デザイン、キャッチコピー。

URL、クリック数、タッチ数、間隔、時間。

ヒト、モノ、カネの動き。

あらゆる情報がビッグデータとして保管され、利用される現代で、無知な観察者は現実を知らない。

観察者が存在するだけで、既に行動が変化する事を。

観察者を被観察者が認識した時点で、さらに行動が変化する事を。

そして、倫理すら頭に無いものは、被観察者を遠ざけていく。

情報の自動転送、時に起こる人為介入。

しかし、鏡である対象は、自らの姿を否が応でも映し出す。

その前提認識を、共有している人間が、もしかすると、限られているのかも知れない。

多くの場面で送られてきたメッセージを記憶、理解している人間はどれだけいるだろうか。

「怪物と戦うものは、その過程で、自らが怪物と化さぬよう心せよ、長く深淵を覗くものを、深淵もまた、等しく見返す」

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

人間にとって、見たくないもの、聞きたくないもの、知りたくないこと、は多くあり、公開されている情報だけでも、充分に認識可能であることも多い。

知ること、聞くこと、見ること、は、観察者への負担になる。

被観察者への負担になる。

監視社会、観察社会は昔から記述されているように、存在し、存続し、現代では顕著に顕現している。

限界を感じる観察者、そしてもちろん被観察者の悲鳴と苦悩が暴走しないように、心掛けなければならない。